天正12年(1584年)、家康が織田信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で、三好秀次(のちの関白・豊臣秀次)の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可(森蘭丸の兄)、池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書いたという。
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「秀吉は、信長公の臣下なのに信長公が死ぬと織田家をないがしろにし、さらに織田家を潰そうと信孝様(信長の三男)を殺し、今また信雄様(信長の次男)を討とうとしている。神は秀吉に天罰を加えるだろう 」
余談だが、康政は能筆家としても知られ、家康の書状もよく代筆したとされる。つまり上記のような文言を達筆な文字で、あちこちに記されたのであるから、その効果は大きかった。
激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。もっともこれによって秀吉の注意を引き、家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、徳川家康上洛に随身し、家康は同月5日、正三位昇叙し、榊原康政は、同月9日、従五位下式部大輔に叙任された。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と並んで家臣中第二位の10万石を与えられる。館林では堤防の工事や、街道整備などに力を注いだ。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を美濃国を目指すが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参する。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許されたと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。